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陶磁器に緻密で立体的な彫刻を施した高浮彫の創始者、宮川香山とその作品について。

宮川香山とその作品についてご紹介します。

超絶技巧の帝室技芸員 宮川香山

宮川香山は江戸時代末期、陶工の真葛宮川長造の四男として生まれました。19歳のときに家業を受け継ぎ、父長造が生前に「香山」の称号を受けていたため、初代香山と名乗って色絵陶器や磁器を制作。25歳で幕府から御所献納の品を依頼されるなどその実力を発揮しました。

 

開国後は京都から横浜に移り、自身が制作した陶磁器を「真葛焼」と名付けて輸出する傍ら、独自技法である「高浮彫」を開発。その技術の高さ、緻密な美しさは海外でも高く評価され、1896年に帝室技芸員に選ばれます。

 

その後、生産効率の悪さなどを理由に高浮彫の制作をやめ、初代香山は二代目香山に窯の経営を一任すると、自身は釉薬の研究に没頭。釉下彩の技術を身に着け、真葛焼の新たな魅力を引き出しました。

 

初代香山の死後は二代目、三代目と香山の名が受け継がれていきますが、1945年の空襲で壊滅的なダメージを受けて窯は閉鎖。四代目香山による復興もむなしく真葛焼の歴史は幕を閉じ、宮川香山の名も途絶えました。

 

真葛焼と高浮彫

宮川香山が横浜ではじめた「真葛焼」は、1684年から1687年の貞亨年間に、京都知恩院前に居を構えていた祐閑宮川小兵衛政一が陶芸を生業としていたことに端を発する焼物で、真葛焼と呼ばれるようになったのは、祐閑宮川小兵衛政一の次男の子孫である宮川長造が京都祇園の真葛原で焼きはじめたことに由来するといわれています。

 

真葛焼は、京都の陶工仁清が焼きはじめた色絵陶器である「仁清焼」の写しとして始まりますが、宮川香山が横浜に移って以降の真葛焼は、当時欧米で人気を集めていた「薩摩焼」を研究して作られました。

しかし、薩摩焼は制作に多量の金を必要とするため制作費がかかるだけではなく、日本の金が海外に流出するという問題があり、これに疑問を感じた宮川香山は、金で表面を盛り上げる薩摩焼の技法の代りとして、盛り上げた土に精密な彫刻を掘り込む「高浮彫」の技法を開発し、宮川香山独自の「真葛焼」を開発しました。

 

現在、宮川香山の真葛焼は途絶えていますが、真葛焼の源流といえる祐閑宮川小兵衛政一の長男筋の子孫は京都で陶工を営んでいます。

このことから、長男の子孫である宮川香齋の焼物を「京都真葛」、宮川香山の焼物を「横浜真葛」と呼んで区別することがありますが、一般的には「真葛焼」というと「横浜真葛」をさします。

 

宮川香山の作品の特徴

初代宮川香山の作品の特徴は、なんといっても高浮彫で作られた緻密で立体的な装飾です。カニ、猫、鴨、龍といった動物のほか、蓮、桜、牡丹などの草花がリアルに表現されており、まるで本物の動植物が張り付いているかのように見え、その独創的でユーモラスな美しさで世界中を魅了しています。

また高浮彫だけではなく、色絵の緻密さや美しさにも定評があり、高浮彫から作風を一転した後年の釉下彩の作品も高い評価を得ています。

 

まとめ

高浮彫の真葛焼を始めとした宮川香山の作品は、その多くが海外に輸出されたこと、現在は途絶えてしまっていることなどから、国内での現存数が少なく「幻の陶芸」といわれています。美術館などで展覧会などが催された際には、ぜひ鑑賞してみてはいかがでしょうか。

 

 

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