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赤膚焼とは?奥田木白など有名作家には誰がいる?

赤膚焼とその有名作家をご紹介します。

奈良で古くから作られてきた焼き物

赤膚焼は奈良県奈良市や大和郡山市など、五条山一帯で古くから作られてきた焼き物の総称で、その起源は古墳時代まで遡るといわれています。

この地域の土は焼き物に適しており、生活に使う土器や火鉢などが古くから盛んに作られていたことはわかっていますが、史料などがほとんど残されていないため、いつから産業として定着したのか、赤膚焼と呼ばれるようになった時期や名前の由来などはわかっていません。

今回は、江戸時代中期の茶人、小堀遠州が茶道具の制作を依頼した「遠州七窯」の一つにも数えられている赤膚焼の特徴や有名作家を紹介します。

 

赤膚焼の特徴

赤膚焼は民間で焼かれていた土器などを発祥としており、茶道が盛んになる桃山時代以前は五条山一帯に点在する窯がそれぞれ独自の方式で焼き物を制作していました。

また、茶道具が作られるようになってから産業として定着したものの廃れてしまい、江戸時代に京都や滋賀など各地の陶工によって復興したという歴史的経緯から、技法や作り方に一定の定義や形式が存在していません。

もっとも一般的な赤膚焼は、赤みのある器体に乳白色の釉をかけ、庶民的で素朴な雰囲気の「奈良絵」が描かれた品ですが、釉薬の色調や形などは窯元によってさまざまです。五条山一帯の土を使用して自由自在に作られているのが赤膚焼の特徴といえるかもしれません。

 

赤膚焼の作家

赤膚焼の作家としては、赤膚焼の知名度を高めた奥田木白と、奈良県の伝統工芸に指定された古瀬堯三(ふるせぎょうぞう)、尾西楽斎、大塩正人、大塩昭山、大塩玉泉、小川二楽の六つの窯元が有名です。今回は奥田木白、古瀬堯三、尾西楽斎をご紹介します。

 

【奥田木白】

奥田木白は江戸末期から明治初期に活躍した陶工で、赤膚焼の中興の祖として知られてています。

郡山藩の御用小間物商を営む傍ら楽焼などを趣味で作っていた木白ですが、趣味が長じて35歳ごろから本格的に作陶を開始。「仁清写し」「里恭写し」など各地の焼き物の写しを多く作っただけではなく釉薬の開発にも積極的で、現在よく見られる赤膚焼の形式を作りました。

 

【古瀬堯三】

古瀬堯三は、大和郡山城主・柳澤保光こと堯三の意向をうけて赤膚焼を再興した陶工、治兵衛を祖とする「赤膚山元窯」を使用している窯元です。治兵衛が開いた窯は嘉永年間(江戸時代)には「中の窯(元の窯)」「東の窯」「西の窯」の三つに分かれましたが、中の窯を継いでいた古瀬家の後継者が途絶えたことで東の窯が中の窯を買い取ります。その後、東の窯が廃窯となると古瀬家の縁戚が中の窯を買い戻し、昭和初期から古瀬堯三として中の窯を再開しました。

 

【尾西楽斎】

尾西楽斎は大和郡山城主・柳澤氏から「香柏窯」という窯名と「楽斎」の号を受領し、郡山城下に開窯した窯元です。代々引き継いだ独自の釉薬と手作りにこだわり、春日大社から「春日御土器師」の称号を与えられるなど高い技術力に定評があります。

 

まとめ

茶碗や花器など伝統的な器から、ポップな「奈良絵」が施された豆皿や鉢など日用の器まで幅広く作られている赤膚焼は、窯元や作家によって異なる作風を楽しめる焼き物です。奈良を訪れたときなど、機会があれば一度鑑賞を楽しんでみてはいかがでしょうか。

 

 

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