始まりは江戸の宿場町畑宿から。石川仁兵衛が創作した箱根寄木細工の歴史について。
箱根寄木細工の歴史についてご紹介します。
木が織りなす美しい文様
箱根寄木細工は色の異なる木を寄せ集めて文様を作り出す技術のことで、日本はもちろん海外からも人気がある箱根の伝統工芸品です。
木が織りなす美しい模様は約60種あるといわれていますが、配色や木材を変えることで印象が大きく変わり、様々な表現を生み出すことができます。
今回は、箱根寄木細工の歴史についてご紹介します。
箱根寄木細工の成立
日本国内でも樹種が豊富な箱根地方は古くから木工が盛んに行われており、戦国時代には箱根南部に位置する宿場町「畑宿」で、ろくろを使って器やお盆を作る「挽物細工」の生産が始まっていたといわれています。
時代が進んで江戸に入ると、東海道が整備されたことで箱根には多くの湯治客が訪れるようになり、そのお土産として箱根で作られた挽物細工が「箱根細工」として広く知られるようになり、「東海道名所図会」では箱根細工が湯本茶屋の名品として紹介されるなど人気が高まっていきます。
江戸時代中期には挽物細工のほかに、板材を組み合わせて家具などを作る「指物細工」も作られるようになり、江戸時代後期にはシンプルな寄木細工が作られるようになりました。
1820年にオランダの日本学者フィッセルが、箱根宿と湯本で寄木細工を見物し購入したのが、箱根での寄木細工の初出であるといわれています。
1845年ごろ、箱根町畑宿に住む石川仁兵衛が寄木の技術を取り入れた指物を考案。
この、箱根で作られた寄木細工と指物細工を組み合わせた工芸品は「箱根寄木細工」として東海道の茶屋や温泉で売られるようになり、独自の発展を始めます。
1845年、ペリー来航によって静岡県の下田港が開港されると、畑宿の「茗荷屋」が箱根細工を売り込み、1859年に横浜が開港されると漆器や陶器とともに箱根細工が輸出されるようになります。
発展と衰退
明治時代に入ると、1892年に湯本茶屋の白川洗石がミシン挽き木象嵌の技法を完成、1894年に湯本の大川隆次朗が、秘密箱を考案、1897年頃に小田原の山中常太郎が組木細工を考案するなど、箱根寄木細工はさらなる発展をとげ、多様な木々を使った複雑な文様の寄木細工が作られるようになります。
大正時代に入ってから箱根寄木細工の人気は好調でしたが、1923年の関東大震災で多くの工場が被災、昭和時代に入り日中戦争が開戦するころになると徐々に衰退を始めます。
戦後から現代
戦後となる1950年に開催された神奈川県工芸展覧会で箱根細工が数多く入賞し、1955年には箱根物産のみの展示会「箱根物産総合展」が開催され輸出が増加するなど、職人の減少などはあるものの箱根寄木細工の伝統は途絶えることなく続き、1984年、箱根寄木細工は通商産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受けました。
まとめ
箱根寄木細工は他に類を見ない工芸品、美術品として人気が高く、現在も神奈川県を代表する名産品として日本はもちろん海外にも広く知られています。
決まった手順でパーツを動かさないと開かない「秘密箱」のほか、コースターやお盆、ティッシュケースなど様々な品が作られているので、箱根を訪れた際や物産展で見かけたときは、ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。