日本と深い関わりを持つイギリス人陶芸家、バーナード・リーチとその作品について。
バーナード・リーチについてご紹介します。
民芸運動とかかわりが深い英国人
イギリス人陶芸家であり画家やデザイナーとして活躍したバーナード・リーチは、日本で日常的に使われている陶磁器の美しさに魅せられ、民芸運動の中心人物である柳宗悦と深い親交を結んだ事で有名なイギリス人です。
イギリスに日本の伝統的な登り窯を開いて西洋と東洋の哲学が融合した陶磁器を作ったほか、柳宗悦の日本民藝館設立に協力するなど、日本の民芸運動と深い関わりを持っています。
今回は、バーナード・リーチの生涯とその作品ついてご紹介します。
バーナード・リーチの生涯
バーナード・リーチは1887年に香港で生まれ、生後すぐに日本で英語教師をしていた祖父の元に引き取られ、日本で4年ほど生活します。
その後、父に引き取られることになり香港へ戻ったのち、シンガポール、イギリスへと移り住み、1903年、芸術家を志してロンドンにあるスレード美術学校に入学。しかし、その翌年に父が亡くなったため中退し、銀行員として働きながら美術学校に通い始め、そこで日本から来た留学生の高村光太郎に出会います。
この出会いがきっかけでリーチは1909年に日本に再来日を果たすと、上野で暮らし始め、高村光太郎が所属する「白樺派」の青年たちや柳宗悦と交流を深めていきます。
また、後に「色絵磁器」の人間国宝となる富本憲吉に出会い、楽焼の絵付けを体験したことで日用品としての陶芸の美しさに魅力を感じるようになり、1912年から京都で六代目 尾形乾山の教えを受けて本格的に陶芸をはじめ、1917年に柳宗悦の家に窯を開いたことがきっかけで、陶芸家の濱田庄司と出会います。
1920年、リーチは濱田庄司とともにイギリスにもどり、そこで日本の伝統的な登り窯を開き、西洋と東洋の美や哲学を融合させた陶磁器を作りはじめます。
しかし、当時のヨーロッパでは陶芸の芸術性はあまり認められておらず、これに失望したリーチは1934年に再来日。日常に使うもののなかに「用の美」を見出す日本の民芸運動に関わり、柳宗悦の日本民藝館設立にも協力します。1940年に書いた「陶工の書」で自身の哲学や芸術家としての思想を明らかにしたことでその名が知られるようになりました。
その後、1950年代から1960年代のアメリカで起こったモダニズム・デザインなどに影響を与え、自身の弟子や友人たちと共に陶芸の地位を高めたほか、たびたび来日して各地で作陶し、日本の民芸運動やその作家をイギリスに紹介するなど、西洋と東洋の融合や陶芸の地位向上に尽力。85歳で視力を失って創作は断念するものの、陶芸に関する著述を続けていたといわれています。
1963年に大英帝国勲章を受章、1974年に国際交流基金賞を受賞し、1977年にロンドンで大規模回顧展が開催されますが、その2年後の1979年、濱田庄司とともに創設した「リーチ・ポタリ―」があるセント・アイビスにて92歳でこの世を去りました。
バーナード・リーチの作品
バーナード・リーチの作品は、イギリスの伝統陶器である「スリップ・ウェア」などの技法と日本の陶器を融合させた独特な作風が特徴です。動物や植物、風景などを題材にした作品が多く、その素朴な色合いや温かみのある形は現在でも広く愛されています。
まとめ
バーナード・リーチの作品は東京都の「日本民藝館」や兵庫県の「兵庫陶芸美術館」などで観ることができます。企画展など催されることも多いので、機会があれば鑑賞してみてはいかがでしょうか。