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「紅白梅図屏風」などでも知られる尾形光琳の生い立ちと作品の評価について。

尾形光琳についてご紹介します。

琳派を代表する絵師

江戸時代には数多くの絵師が活躍し後世に残る名作が数多く誕生しましたが、大和絵の伝統を基盤とした装飾性・デザイン性に富む絵画や工芸などを生み出した流派「琳派」の画家が活躍した時代でもあります。
なかでも、琳派を発展させた尾形光琳は琳派を代表する絵師であり、その作品はグスタフ・クリムトやアルフォンス・ミュシャなど海外の画家にも影響を与えたといわれています。
今回は、尾形光琳の生い立ちとその作品についてご紹介します。

 

尾形光琳の生い立ち

尾形光琳は1658年、京都でも有数の呉服商「雁金屋」の次男として生まれ、幼いころから能や茶道、書画などの教えを受けて育ちました。
生家の雁金屋は後水尾天皇の皇后であり徳川家康の内孫でもある東福門院(徳川和子)の御用達を看板に商いを営む裕福な家庭で、屋敷には琳派の創始者として知られる本阿弥光悦の硯箱や俵屋宗達の屏風があるなど、琳派の作品に日常的に触れていたようです。
幼少期から卓越した芸術的センスを発揮した尾形光琳は蒔絵の下絵を手掛けるなど画家としての片鱗を見せていましたが、生活が派手で浪費癖があり、30歳の頃に父が死去すると経済的に困窮しはじめ、莫大な借金を抱えるようになった40代に本格的に画業にとり組むことを決意します。

 

画家として活動を始めた尾形光琳は、俵屋宗達や本阿弥光悦の作風から学んだ知識と独自の芸術性を融合させたな独創性豊かな作品を数多く創り出し、公家や銀座の役人、中村内蔵助の支援もあって瞬く間に人気絵師に上り詰め、1701年、44歳の頃には宮廷から法橋(ほっきょう)という称号を賜りました。
1704年に江戸詰めとなった中村内蔵助を頼って江戸に赴き、津軽家や豪商の三井家、住友家、冬木家などを相手に活動をしながら水墨画や浮世絵などを学んでで自らの腕に磨きをかけますが、江戸での生活に窮屈さを感じ、わずか5年で京に戻ります。

 

京に戻った尾形光琳の元には、大名家や京阪神の豪商、寺院などから数多くの仕事が舞い込みます。このころには生活も安定し、絵画の制作に集中出来るようになった光琳は、俵屋宗達の作品に傾倒し、それを目標としながらも独自性に富んだ大作を手がけます。
絵画のほか、弟の尾形乾山が作った器に絵付けを行ったり漆器のデザインを手掛けたりするなど幅広く活躍した尾形光琳ですが、1716年、59歳でこの世を去りました。

 

作品と評価

尾形光琳の作品は、金箔を使用した背景と大胆な構図、余白やシンメトリーを意識して計算された平面的なデザイン、人物や風景などの一部に着物の染型のようなパターンを装飾的に取り入れていることが特徴です。
制作年代が不明な作品が多い尾形光琳ですが、40代中頃に描いたといわれる「燕子花屏風図」以外の代表作、「紅白梅図屏風」や俵屋宗達の模作である「風神雷神図」「槇楓図」「松島図」といった作品は50代に描かれたものだといわれています。
また、「八橋蒔絵硯箱」「白綾地秋草模様小袖」などの工芸品も手がけており、絵画・工芸共にその卓越したデザイン性や洗練されたセンス、豊かな発想が高い評価を得ています。

 

まとめ

尾形光琳の作品は、東京国立博物館や根津美術館のほか、メトロポリタン美術館やボストン美術館など海外の美術館にも収蔵されています。機会があればぜひ鑑賞してみてはいかがでしょうか。

 

 

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