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重厚感ある独特のマチエールで知られる、鳥海青児とその作品について。

鳥海青児とその作品についてご紹介します。

土壁のようなマチエール(絵肌)

水彩絵具や岩絵具など、絵を描くときに使用する絵具にはさまざまな種類がありますが、油絵具は粘性が高く乾くと固い膜ができるという特徴があるため、立体的に盛り上げたり、絵具を接着剤のように使って絵具以外の材料を塗りつけたりするなど、色彩以外の方法でさまざまな表現をすることができます。

鳥海青児は油絵具に砂を混ぜて塗り、ノミで削るという技法を好んで使用した洋画家で、その重厚感のある独特なマチエール(絵肌)は「土壁のよう」と表現されることがあります。

 

鳥海青児の生涯

鳥海青児は、1902年に現在の神奈川県平塚市に生まれ、1916年に藤嶺中学に編入た頃から油絵を描き始め、同校の絵画教師を務めていた洋画家の金子保や洋画家の萬鉄五郎の指導を受けただけではなく、萬鉄五郎とともにヒュウザン会を結成した岸田劉生とも交流を持ったといわれています。

藤嶺中学を卒業後は関西大学の予科に入学。1922年ごろから「青児」という筆名で制作に励み、1924年に萬鉄五郎と岸田劉生が創立客員として参加していた「春陽会」の第二回展示会に出展した「洋女を配するの図」「平塚風景」の2点が初入選します。

また、1924年には戦前のモダニズムを代表する洋画家の1人である三岸好太郎らと共に麓人社を結成して第1回展を開催、作品40点を陳列しています。

 

1927年に関西大学経済学部を卒業し、春陽会展や麓人社に作品を出展し画家としての功績を積んでいった鳥海青児は1930年にパリに渡り、その後アルジェリア、モロッコ、スペイン、オランダなどを訪問、ゴヤ、レンブラント、ドーミエなどの影響を受け作風が変化し始めます。

1933年に帰国して春陽会会員になると春陽会展を中心に作品を発表するようになり、帰国の翌年である1934年に開催された第12回春陽会展に絵具に砂を混ぜた作品を出品し「日本的でない作家のひとり」といわれるようになります。

絵具に砂を混ぜる技法や独特の画風は当初あまり評価がよくなかったものの、後に追随者が現れ始め日本的な油彩画の一典型となっていきます。

 

1943年に春陽会を脱退して独立美術協会の会員になると、晩年まで同会に作品を発表し続けるようになります。

大津絵や仏画、作庭、陶芸など幅広い分野に興味を持った鳥海青児は、中国、インド、中東や中南米など各地を巡りながら、1972年に死去するまで精力的に制作を行いました。

 

作品の特徴

鳥海青児の作品の特徴は、砂を混ぜた渋い色調の絵具を盛り上げた後、ノミで削ることによって作られる重厚感のある絵肌と、形を単純化することで主題を際立たせる独特な構成です。茶色を基調とした気品と落ち着きのある色調の作品が多く残されていますが、「メキシコの西瓜」など鮮やかな色を使った作品もあります。

 

まとめ

鳥海青児の作品は神奈川県の平塚美術館のほか、三重県立美術館でも観ることができます。機会があればぜひ訪れて、その独特な質感と作風に触れてみてはいかがでしょうか。

 

 

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