人間国宝と同じ?帝室技芸員とその作品の価値について。
帝室技芸員とその作品の価値についてご紹介します。
帝室技芸員とは
帝室技芸員は、1890年から1947年まで宮内省によって運営されていた美術家や工芸家の顕彰制度です。
「技芸員」という名前のとおり、任命された作家の分野は幅広く、日本画家や西洋画家、彫刻家のほか、金工、陶工、漆工、刀工といった諸工芸作家、写真家なども任命されており、現在の人間国宝制度の前身になっているともいわれています。
人間国宝との違い
現在、人間国宝(重要無形文化財)の認定は文部科学省によって行われていますが、当時は宮内庁の宮内大臣により任命された選択委員により作家が推薦され、帝室博物館館長の招集した会議によって任命されるという仕組みになっていました。
選択委員は帝国博物館を中心とする宮内省関係者、東京美術学校を中心とする文部省(現在の文部科学省の前身)関係者が多くを占めています。
発足当初は宮中や宮内省との結びつきが強く、当時「旧派」と呼ばれていた「日本美術協会」の重鎮が年功序列で任命を受けるという傾向がありましたが、時代が進むにつれて、当時の人気作家や「旬」の作家が任命されるようになりました。
このことから、現在の人間国宝が持つ「伝統文化の保護」を主目的としているのに対し、帝室技芸員は「日本の美術工芸を外国に広める」という意図があったといわれています。
とはいえ、単に「人気があるから」というだけで任命されるものではなく、任命されるに足りる優れた技術を持つ作家が厳選されていたことは、最後に任命が行われた1944年までの55年間に、選定は13回しか行われておらず、任命者も79名しかいないことを見れば明らかです。
有名な帝室技芸員
【高村光雲】
高村 光雲(たかむらこううん)は1852年、江戸で生まれた彫刻家です。
仏師・高村東雲(たかむらとううん)の元で木彫を学んだあと、仏師として生計を立てていましたが、明治維新以後は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動の影響で仏師としての仕事は激減。輸出用の象牙彫刻が流行したために木彫も衰え、苦しい生活を余儀なくされていました。
しかし、そのような中で木彫に専念し、西洋美術的な要素や写実主義を取り入れることで衰退しかけていた木彫を復活させ、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる重要な役割を果たしました。
仏像や動物をモチーフにした作品を多く手がけており、上野恩賜公園の西郷隆盛像も光雲の作です。
【富岡鉄斎】
富岡 鉄斎(とみおかてっさい)は1837年、京都で生まれた儒学者であり、明治・大正期の文人画家です。
「日本最後の文人」と呼ばれることも多い鉄斎は、南画や明清画、大和絵などの諸派を学び、独自の作風を確立しました。
学者としての姿勢を貫きながら自由な作画活動を行い、その学識と画技により帝室技芸員に選ばれました。小品も含めると2万点以上も残したと言われており、テレビの鑑定番組でも鉄斎作とされる掛け軸が出品されることがあります。
【横山大観】
横山 大観(よこやまたいかん)は1868年、常陸国水戸で生まれた日本画家です。
「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立したほか、日本画の近代化を積極的に実践するなど、近代日本画の一典型をつくり、墨画にも一風を開いた、近代日本画壇の巨匠です。
帝室技芸員のほか、帝国美術院会員、第1回文化勲章受章者にも選ばれており、死後は正三位勲一等旭日大綬章を追贈されるなど、華々しい経歴を持っています。
画題としては富士山を好み、富士山を描いた作品は2000点を超えるとされ、1967年に国際観光年記念切手として発行された「富嶽飛翔」も大観による作です。
作品の価値
優れた技術を持つ帝室技芸員の作品は価値が高く、人間国宝の作品と同等、あるいはそれ以上の価値を持つ作品も多数存在します。
まとめ
帝室技芸員の作品は明治・戦前の作品ということもあり、芸術的な価値だけではなく骨董的な価値が認められることもあります。
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