中国近代画の巨匠、斉白石(せいはくせき)とその作品について。
斉白石とその作品についてご紹介します。
人民芸術家 斉白石
中国の美術というと高い技術で作りこまれた精緻な工芸や、力強く荘厳な雰囲気の書画などのイメージがあり、格調高さと美しさを備えている反面、親しみにくいと感じる方もいるようです。
しかし、そんなイメージの強い中国美術の中でも「中国近代画の巨匠」「人民芸術家」といわれる斉白石の作品は、伝統的な美しさと力強さを備えながらもどこか親しみを感じると言われ、非常に高い人気を誇ります。
今回は斉白石の生涯とその作品についてご紹介します。
斉白石の生涯
斉白石は1864年に中国の湖南省に生まれました。生家は貧しい農家で、幼いころから絵を描くことを好んでいたものの、教育を受けることができたのは7歳の数カ月間のみで、12歳ごろまでは放牧などの手伝いをしながら独学で絵を描いて過ごしていました。
12歳で大工見習になって一年後に指物師となった斉白石は、その並外れた技術を活かし職人として生計を立てるかたわら、肖像画や美人画を学んでいったといわれています。
芸術を本格的に絵を学び始めたのは20代後半になってからのこと。精緻な花鳥画・鳥獣画のほか、詩文や山水画を画家などについて学び、30歳になってからは独学で書や篆刻を身に着け、中国の伝統的な「文人」的な素養を磨いていきます。高い技術を持つ職人としての評価が高かった斉白石は篆刻でもその技術の高さを発揮したといわれています。
その後、40代の頃に5度も中国全土を巡って芸術的な視野を広げ、さらにその後10年は故郷にこもって読書に耽り、詩や書画、印の製作に没頭。「借山図巻」「石門二十四景」などの大作を生み出しました。
55歳で北京に移住して絵や印を売って生計を立てようとしますが、当時の北京は伝統を重んじる保守的な風潮が強く、貧農出身の大工の斉白石は白眼視され苦しい時代を過ごします。
しかし、日本に留学した経験を持つ画家、陳師曽に才能を見出され、芸術的交流を深めながら支援を受け、1922年に東京で開催された「日中共同絵画展」に作品を出展。これをきっかけに国際的な評価が高まり、画家として大成します。
生涯現役で絵を描き続けた斉白石は、1953年に人民芸術家の称号を授与され、1955年に国際平和賞を受賞。1957年に死去するまで数多くの作品をこの世に残しました。
斉白石の作品
斉白石の作品は力強い墨と鮮やかな色使い特徴です。
また、鳥や虫、エビなども生き物は写実的である一方、風景や花木などデフォルメされているなど、モチーフによって描写が異なるのも大きな特徴で、一つの絵の中に写実とデフォルメが収められているなど、一見するとアンバランスでありながら二つの異なる世界が一つに融合したような独特な作風が魅力です。
自然や命への愛情に満ちた生き生きとした作品の数々はどこかユーモラスで、その鮮やかさと伸びやかさから「中国のピカソ」と評されることもあります。
まとめ
陳半丁・陳師曽・凌文淵と共に、京師四大画家と称された斉白石の作品は京都国立博物館のほか、全国の美術館や博物館で催される企画展や特別展などで観ることができます。
また、中国で最も高い値がつく画家といわれているその作品は、小さなものでも一千万円前後の価値がつくと言われています。