「相馬の古内裏」など大胆奇抜な浮世絵で知られる、歌川国芳とその作品について。
歌川国芳とその作品についてご紹介します。
独特な世界観が魅力の歌川国芳
江戸時代に活躍した浮世絵師のなかでも、歌川国芳は大胆な構図や力強い線、奇抜なモチーフなど、独特な世界観から根強いファンがいる浮世絵師です。
なかでも、画面の右半分を巨大な骸骨が占める「相馬の古内裏(そうまのふるだいり)」は特に有名で、テレビや本、インターネットなどで一度は見たことがあるという方が多いのではないでしょうか。
歌川国芳とは一体どのような浮世絵師で、どのような作品を残しているのでしょうか。
歌川国芳の生涯
歌川国芳は寛永9年(1798年:江戸時代末期)に、現在の東京都中央区日本橋で生まれました。幼少期から絵を学び、12歳のころに描いた「鍾馗提剣図(しょうきていけんず)」が役者絵で人気を集めていた歌川豊国の目に留まったことから、15歳で浮世絵の一派「歌川派」に入門します。
歌川派に入門後、兄弟子である歌川国直の家に居候して仕事を手伝いながら自らの作品も手掛けますが、あまり人気が出ず。錦絵「平知盛亡霊図」や「大山石尊良弁滝之図」で一時的な人気を集めたものの、同じ歌川派の兄弟子でありライバルである、歌川国貞の人気に勝つことはできませんでした。
絵師としてなかなか成功できなかった歌川国芳でしたが、文政10年(1827年)頃に発表した、水滸伝をモチーフとしたシリーズもの「通俗水滸伝豪傑百八人之一人」が人気を博し、ついに人気絵師としての地位を確立します。
天保13年(1842年)の「天保の改革」で浮世絵の価格や色数などが規制されて、自由な表現が難しくなりますが、歌川国芳は人間を動物に置き換える「擬人化」などの方法で幕府の圧力を回避しながら斬新な発想と遊び心、風刺を盛り込んだ作品を多数制作します。
「天保の改革」の中心であった水野忠邦が失脚し、浮世絵が自由に描ける時代になると、歌川国芳の活動はさらに精力的なものとなり、「宮本武蔵と巨鯨」など、華々しい武者絵を発表。安政3年(1856年)初め頃に中風を患って以来作風に陰りが見えるようになりますが、弟子による補助を得ながらも制作を続け、文久元年(1861年)に65歳でその生涯を終えました。
作品の特徴と代表作
歌川国芳の作品の特徴は、大胆な構図とダイナミックなタッチ、躍動感あふれる人物や動物、化け物たちです。
役者絵、武者絵、美人画、風景戯画、春画のほか、歴史・伝説・物語をモチーフとした作品を残しており、その勇壮さから「武者絵の国芳」とも呼ばれています。
また、無類の猫好きとしても知られる歌川国芳は、猫を描いた作品を多く残しています。
【代表作】
「通俗水滸伝豪傑百八人之壱個」
「源頼光公館土蜘作妖怪図」
「忠臣蔵十一段目夜討之図」
「相馬の古内裏」
「宮本武蔵と巨鯨」
「猫の当字 なまず」
「猫のけいこ」
「其まま地口猫飼好五十三疋」
まとめ
独特な世界観と大胆な構図、ユーモラスなセンスで現在も高い人気を誇る歌川国芳の作品は、「山口県立萩美術館・浦上記念館」「神戸市立博物館」「東京国立博物館」「横花美術館」「太田記念美術館」などのほか、アメリカの「ボストン美術館」でも観ることができます。
また、さまざまな美術館で歌川国芳をテーマとした特別展や企画展も開催されていますので、機会があれば一度鑑賞してみてはいかがでしょうか。