浮世絵を確立させた「浮世絵の祖」菱川師宣について。
菱川師宣についてご紹介します。
「挿絵」から「浮世絵」へ
浮世絵は江戸時代初期に発達した絵画で、その源流は古典や物語を題材とした「大和絵」にあります。浮世絵が「浮世絵」と呼ばれていなかった江戸時代の初期、戦乱の世が終わって庶民の間に読書が娯楽として広まり、数々の浄瑠璃本や御伽草子など文章に絵を添えた形式の本が多数出版されました。
しかし、当時の識字率はまだ低く、本を読みたいけれど字を読むのが苦手という人が多く、絵を主体とした視覚的に楽しめる作品の需要が高まっていきます。
菱川師宣はその時流を読み取り、挿絵を大きくして文章の量を減らした絵本を発行し、やがて浮世絵と呼ばれるジャンルを確立します。
今回は、「浮世絵の祖」と呼ばれる菱川師宣についてご紹介します。
絵師「菱川師宣」の誕生
菱川師宣は江戸時代初期の安房国(現在の千葉県)で縫箔刺繍業を営む父の元に生まれました。幼少のころから絵を好んでおり、縫箔刺繍の下絵を描いて家業を手伝っていましたが、明暦3年(1657年)に起こった明暦の大火の後に江戸へ渡り、そこで狩野派、土佐派、長谷川派といった御用絵師たちの技法を学びます。
江戸では縫箔師として上絵を描く仕事をしていましたが、いつの頃からか絵を専業とするようになりました。この頃の史料は残されていないため詳しい足取りは不明ですが、浄瑠璃本や俳書などの挿絵を描きながら独自画風を確立していったと見られています。
当時、挿絵は絵師の署名がないものでしたが、寛文12年(1672年)に発行された「武家百人一首」に本名である「菱川吉兵衛」と署名したことで、幕府や朝廷のお抱え絵師ではない町絵師という存在が広く認知されるようになり、庶民が絵に親しむきっかけとなります。
挿絵から絵本、一枚絵へ
その後、絵師が絵を描くときに見本にする画集「絵手本」を「絵づくし」という名で発行したところ絵師ではない一般の人の間で売れ、文字主体ではなく絵を主体とした書物の需要があることに気付いた菱川師宣は、挿絵を大きくして文章を少なくした「絵本」を発行し人気を博しました。
また、書物の一部でしかなかった版画を一枚絵にして販売することを考案した菱川師宣は、「墨摺絵」と呼ばれる黒一色の版画を発行して販売。後に墨摺絵を手で彩色した「丹絵」が登場すると、菱川師宣も丹絵を制作するようになります。
浮世絵の祖
従来の大和絵は古典などを題材としたものであり、その時代をテーマとすることはありませんでした。
しかし、江戸時代に入ると「好色一代男」に代表される浮世草子が人気を集め、その挿絵も作品の内容に合わせた浮世を反映したものが描かれるようになり、挿絵から発展した絵本や一枚絵もまた、役者ものや吉原もの、名所記など時代を反映した作品が中心となりました。
このことから「浮世を題材とした絵=浮世絵」と呼ばれるようになり、浮世絵の普及に貢献した菱川師宣は最初の浮世絵師、浮世絵の祖と呼ばれるようになりました。
菱川師宣の作品
菱川師宣の作品は、「浮世百人美女」「今昔役者物語」などの絵本、「よしはらの躰」「延宝三年市村竹之丞役者付」「蹴鞠」などの墨摺絵や丹絵といった版画作品のほか、「見返り美人」や「歌舞伎図屏風」などの肉筆浮世絵などがあります。
版画作品は余り残されておらず、目にする機会がある作品のほとんどが肉筆浮世絵です。
まとめ
菱川師宣の作品は海外でも高く評価され、大英博物館やボストン美術館にも所蔵されています。国内でも観られる美術館・博物館が多数ありますので、機会があれば鑑賞してみてはいかがでしょうか。