たらし込み技法、大胆でドラマチックな構図で屈指の人気を誇る、前田青邨とその作品について。
前田青邨とその作品についてご紹介します。
岐阜生まれの日本画家
前田青邨は岐阜県中津川に生まれた日本画家です。「洞窟の頼朝」「異装行列の信長」など歴史を題材とした作品を多く残しており、その大胆な構造や濁りのない色彩などから高い人気があります。法隆寺金堂壁画や高松塚古墳壁画の模写も手掛け、文化財の保護事業に携わったことでも知られている前田青邨とはどのような人物で、その作品にはどのような特徴があるのかご紹介します。
前田青邨の生涯
前田青邨は1885年、現在の岐阜県中津川市にある乾物屋の次男として生まれました。子どものころから絵を描くことが好きで将来は画家になりたいと志していた青邨は、1898年に上京し、京華中学校に進学しますが体を壊して学校を中退、帰郷します。
1901年に再び上京した青邨は、明治時代を代表する小説「金色夜叉」の作者である尾崎紅葉の勧めで日本画家の梶田半古に弟子入りし、1902年に「青邨」の雅号をもらいます。
梶田半古は尾崎紅葉の小説をはじめとした文章作品の挿絵や口絵を数多く手掛けており、前田青邨はその影響から歴史上の人物や武者絵などを多く描くようになったといわれており、古い絵巻などを参考にした作品などを残しています。
1907年に大和絵系日本画家の研究団体である「紅児会」に入り、梶田半古を師に持つ小林古径らとともに日本画を研究、従来の日本画にとらわれない新しい作風の日本画・歴史画を発表し、画壇に新風を送り込みました。
しかし1912年に体を壊した青邨は神奈川県平塚で転地療養することになり、翌1913年には紅児会も盛況のうちに解散となります。
1914年、解散した紅児会のメンバーが多く所属する再興された日本美術院の同人となった青邨は精力的に創作活動を行い、朝鮮や中国、ヨーロッパに足を運んで絵画を学びながら数々作品を制作。1930年には「洞窟の頼朝」で第1回朝日文化賞を受賞します。
また、1944年にはその技術の高さや功績が評価されて帝室技芸員に推挙され、1955年文化勲章受章、文化功労者など、華々しい功績をあげていきます。
東京芸術大学などで後進の育成に励みながらも自身の創作にも熱心で、1967年に法隆寺金堂壁画再現事業総監修に就任、1973年に高松塚古墳壁画模写事業総監修者に就任、1974年にローマ法王庁からの依頼によりバチカン美術館に納める「細川ガラシア夫人像」を完成させるなど、1977年にこの世を去るまで画家として活躍し続けました。
作品の特徴
前田青邨の作品は、ドラマティックで大胆な構図と濁りのない鮮やかな色彩、「たらし込み」と呼ばれる技法が生み出す滲みと奥行き、緻密で繊細な線画が特徴です。なかでも、前田青邨の代名詞ともいえる武者絵は甲冑の細部まで書き込まれており、その緻密さとリアルな描写が独特な緊張感を生み出しています。
また、歴史画や武者絵、人物画だけではなく、牡丹、梅、菊、鵜、鶴、猫といった動植物をモチーフとした作品も数多く残しています。伸びやかな線と鮮やかな色彩からは自然に対する深い愛情を感じられます。
まとめ
前田青邨の作品は、東京国立近代美術館、東京国立博物館、名古屋市美術館、岐阜県美術館などさまざまなところで鑑賞できます。機会があればぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。