繊細で静謐な作品が特徴の、版画家長谷川潔とその作品について。
長谷川潔とその作品についてご紹介します。
「黒の版画家」長谷川潔
長谷川潔は、繊細な描写と静謐な佇まい、奥行きのある黒が特徴的な作品を残した版画家で、その特徴から「黒の版画家」と呼ばれています。
その独特な美しさは日本はもちろん海外でも高く評価されており、フランス文化勲章を受けるなど、華々しい功績をあげた長谷川潔とはどのような人物なのでしょうか。
今回は、長谷川潔の生涯とその作品についてご紹介します。
長谷川潔の生涯
長谷川潔は1891年、神奈川県横浜市に銀行家の長谷川一彦の長男として生まれました。実家は裕福で、幼いころから書や日本画などを学びましたが、10歳の頃に二人の兄弟を亡くし、その後間もなく父・一彦が死亡。裕福な生活から一転、不幸な生活を余儀なくされ、母と共に東京の麻布に移り住みます。
生来からの虚弱体質であったことから勤め人は難しいと判断され、好きだった美術の道を歩むことを決意。中学卒業を前に母を亡くした潔は、1910年に中学を卒業すると洋画家の黒田清輝、藤島武二、洋画家で版画家の岡田三郎助から絵を学ぶことになります。
1918年にフランスに渡ると絵画よりも版画に強い興味を持つようになり、独学で版画技能を学び、1923年からサロン・ドートンヌなどのサロンや展覧会に作品を出品、1925年には初の版画の個展を開き高い評価を得ます。
1926年にはサロン・ドートンヌ版画部の会員となり、パリ画壇で確固たる地位を築きますが、1939年に第二次世界大戦が勃発するとパリから離れることを余儀なくされ、ボルドー、ビアリッツなどを転々とするなど経済的にも健康面でも苦しい時代が続きます。
第二次世界大戦終結後、創作を再開した長谷川潔は銅版画に没頭。アクアチント、エッチング、ドライポイント、エングレービングなどの技法を極めていき、17世紀から18世紀のイギリスで発達したメゾチントの技法を独自に発展させた「マニエル・ノワール」にたどり着きます。
1966年にフランス文化勲章を受章。1967年に勲三等瑞宝章を授与されますが、1970年に数々の名作を共に生み出してきた摺師のケネヴィルが亡くなると活動をやめ、日本に一度も帰国することなく1980年にパリの自宅でその生涯に幕を下ろしました。
作品の特徴
長谷川潔の作品は、メゾチントのほか、ポアント・セッシュ(ドライポイント)、アクアチント、オーフェルト(エッチング)、ビュラン(エングレービング)など多彩な技法で制作されていますが、いずれの作品も繊細で美しく、静謐で深みのある佇まいが特徴です。
なかでも、ベルソーという道具を使って表面に目を立てたあと線彫りを行うメゾチントの技法を独自に発展させた「マニエル・ノワール」と呼ばれる後期のメゾチント作品の魅力である濡れたような黒は、道具の使い方だけではなく独自の研究を重ねて作られたインクから生み出されています。
花や鳥、静物、風景や人物を描いた作品のほか、イソップ寓話や竹取物語をテーマとした作品も残されています。
まとめ
「黒には7色の色がある」と話すなど、黒にこだわった長谷川潔の作品は、黒の奥に色彩を見出す水墨画のような趣があるといわれており、西洋的でありながらどことなく日本画のような雰囲気が感じられる独特な世界を創り出しています。
京都国立近代美術館や中野美術館(奈良県)などで観ることが出来ますので、機会があれば鑑賞してみてはいかがでしょうか。