日本の原風景を愛した近代日本画家、川合玉堂とその作品について。
川合玉堂とその作品についてご紹介します。
自然をこよなく愛した日本画家
川合玉堂は岐阜県とゆかりのある日本画家の一人で、四季折々の日本の風景を美しく描く近代日本画壇の巨匠とも呼ばれる人物です。自然をこよなく愛し、数多くの風景画を残した川合玉堂とはどのような人物なのでしょうか。
川合玉堂の生涯
川合玉堂は1873年に現在の愛知県一宮市で筆墨紙商の長男として生まれ、1881年に岐阜県に移り住んだ後、12歳頃から絵に親しむようになったといわれています。
そんな玉堂にとって転機となったのは、1886年から岐阜県に住み始めた画家 青木泉橋夫妻との出会いでした。14歳の頃に青木泉橋の紹介状を持って京都の日本画壇である四条派の望月玉泉門下に入り、玉舟の号を得ます。
17歳になる1890年、第3回内国勧業博覧会に『春渓群猿図』『秋渓群鹿図』の連作を出展して入選したことをきっかけに名を玉堂と改めます。さらにこの年から日本画の流派である円山派の幸野楳嶺(こうのばいれい)の画塾に入り絵を学び続けますが、父母の死や自身の結婚などが続き画家としての活動はあまり見られません。
長男が生まれた1895年に、京都で開催された内国勧業博覧会で橋本雅邦の「龍虎の図」と「十六羅漢」をみて感銘を受け、翌1896年に上京し、橋本雅邦の門下に入ります。
1898年からは橋本雅邦が岡倉天心、横山大観らと共に創立した日本美術院に参加、画家としての制作を行うかたわら、1900年ごろから「長流画塾」という私塾を主宰、さらに、1907年には第1回文展(現在の日展)の審査員に任命され、1915年からは東京美術学校日本画科教授となるなど、後進の育成にも携わるようになります。
1917年には帝室技芸員に任命され、日本画壇の中心的存在の一人となっただけではなく、フランス政府からレジオンドヌール勲章を授与、ドイツ政府から赤十字第一等名誉章を授与されるなど海外でも評価されるようになります。
1944年からは写生のために頻繁に訪れていた東京都西多摩郡(現在の青梅市)に疎開し、戦後もそのまま同地に定住。この頃から「多摩の草庵」と題する歌集を発行するなど画業以外の活動にも取り組み、1954年には青梅民謡「御岳杣唄」の作詞も手掛けています。しかし、1957年に心臓喘息でこの世を去り、死後、勲一等旭日大綬章を受けます。
作品の特徴
川合玉堂の作品の特徴は、優美な線と色彩で描かれた日本の四季折々の自然の美しさと、そこに暮らす人々や動物たちの生き生きとした姿です。初期の作品は水墨画のような印象が強く色彩が暗いものの、時代が経つにつれて明るさを増し、自然と人間の営みが穏やかに融合した美しい世界へと昇華されています。
代表作には、春渓群猿図・秋渓群鹿図、二日月、行く春、溪村春麓図、深山濃霧、溪山四時図屏風、彩雨、暮雪、鵜飼 などがあります。
まとめ
川合玉堂の作品は、東京都青梅市にある個人美術館「玉堂美術館」のほか、東京国立近代美術館、岐阜県美術館でも鑑賞することができます。機会があれば、ぜひ鑑賞してみてはいかがでしょうか。