日本画の巨匠、横山大観とその作品の特徴について教えてください。
日本画の巨匠、横山大観とその作品の特徴をご紹介します。
明治・大正・昭和を駆け抜けた巨匠
日本画の巨匠として知られる横山大観は、明治元年に現在の茨城県である常陸国で、水戸藩士であった酒井捨彦の長男として誕生しました。
学齢時代から絵画に興味を抱いた大観は洋画家の渡辺文三郎に鉛筆画を学び、東京美術学校を受験することに決めた後は、結城正明や、近代日本画の父といわれる狩野芳崖などに教えを受けました。この期間はわずか3カ月程度であったといわれています。
また、当時の大観は鉛筆画を描いていましたが、受験生の多くが有名な師に何年も教わって鉛筆画で受験すると聞くと、試験の直前に鉛筆画から毛筆画への試験の変更を申請して東京美術学校に合格しました。これらのエピソードは大観が短期間で技術を習得することに長けていたこと、画家としての素質が備わっていたことを示唆しています。入学後は岡倉天心、橋本雅邦などに学び、実力をさらに高めていきます。
美術学校卒業後は京都に移り住んで仏画の研究を始めるとともに、京都市立美術工芸学校予備科教員となります。
1896年に、母校・東京美術学校の助教授に就任。しかし2年後に岡倉天心が東京美術学校から排斥されたことを受けて大観も岡倉天心に従って助教授を辞め、日本美術院創設に参加しました。
横山大観の「朦朧体」
横山大観の作品の特徴は、「朦朧体」と呼ばれる線画技法です。
これは、色彩の濃淡によって形態や構図、空気や光を表した技法で、輪郭線をはっきりと描く東洋画の伝統的な線描技法とは大きく異なるものです。
西洋画の画法を取り入れた新たな画風として確立されたこの技法は、当初「明瞭な輪郭をもたない」「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」と批判され、保守的な日本国内の画壇では受け入れられませんでした。
そのため、大観は日本美術院で西洋画の技法を研究していた菱田春草とともに海外に渡って展覧会を開きます。
西洋の「印象派」的な特徴を持つ大観の作品は欧米で高い評価を得、それを受けて日本国内での評価も次第に高まり、近代日本画の巨匠としての地位を確立しました。
大観が愛した富士山
横山大観の作品というと、1967年に発行された国際観光年記念切手の絵柄となった「富嶽飛翔」が有名ですが、大観は富士山を好んで描いており、数多くの富士山絵を残しています。大観は89歳で亡くなりましたが、数え年で88歳を迎えた年も「霊峰夏不二」を描いており、まさに、「生涯にわたって富士山を描き続けた画家」といえるでしょう。
まとめ
横山大観の作品は、大観が居住していた建物を一部改造して作られた横山大観記念館のほか、東京国立博物館、東京国立近代美術館、足立美術館などで観ることができます。
また、美術館や博物館だけではなく、広島県の厳島神社や、兵庫県の湊川神社にも作品が残されています。機会があればぜひ鑑賞してみてはいかがでしょうか。