岐阜を代表する画家、熊谷守一とその作品の価値について。
熊谷守一とその作品の価値についてご紹介します。
岐阜を代表する画家、熊谷守一
熊谷守一(くまがい もりかず)は1880年、現在の岐阜県中津川市に生まれた画家です。
12歳ころから水彩画を描きはじめ、1898年に共立美術学館入学、1900年に東京美術学校など本格的に絵画を学ぶ傍ら、山梨県や東北地方を巡るスケッチ旅行をするなど意欲的に美術を学んでいました。
1909年、闇の中から世界を見つめる若き画家の不安を描いた自画像「蝋燭」が第三回文展で入賞したのち、一度は実家に戻るものの1915年に再び上京。第2回二科展に「女」出展をしたあとは軍の圧力により二科展が解散されるまで毎年出品をつづけていました。
1938年から墨絵を描き始め、この年に濱田葆光の助けで大阪と奈良と名古屋で相次いで初となる個展を開催しました。
晩年は1967年に文化勲章の内示を辞退、1972年の勲三等叙勲も辞退するなど、自由な生活と制作を好んでいたことから「画壇の仙人」と称されていました。1977年8月1日、老衰と肺炎のため97歳で没するまで制作を続けていました。
熊谷守一の父は岐阜県議会議員として岐阜の市制実施運動を興し、1889年に初代岐阜市長に就任した熊谷孫六郎であることから、岐阜の人たちにとってはなじみの深い画家といえるでしょう。
熊谷守一の作品と作風
写実画から出発した熊谷守一の作風は、表現主義的な画風を挟んだあと、洋画の世界で「熊谷様式」ともいわれる、極端なまでに単純化された形や平面的な画面の構成をもった抽象度の高い具象画スタイルに変化していきました。
4歳の息子が自宅の布団の上で息絶えた姿を荒々しい筆遣いで描いた「陽の死んだ日」、長女が21歳の誕生日を迎えてすぐ亡くなり野辺の送りの帰りを描いた作品「ヤキバノカエリ」など、人の死や重い題材の作品を残していますが、1日のほとんどを自宅で過ごすようになった晩年は、自然や身近な小動物や花などを好んで描いていました。
作品は「水彩」「油彩」「墨絵」のほか、版画作品も残しています。
熊谷守一の作品の価値
熊谷守一は文化勲章や勲三等叙勲などを辞退しているため、社会的に名誉とされる称号をもつ画家ではありませんが、非常に高い価値がついており油彩なら数百万、日本画や水彩画なら数十万から数百万で取引されています。
また、木版画やシルクスクリーンといった版画作品も、人気がある作品などは数十万で取引されているようです。
まとめ
明るい色彩と単純化されたかたちが特徴のタッチで身近な生き物の姿を数多く描いた一方、子どもの死など重いテーマの作品も残している熊谷守一の作品からは、「命」を見つめる真摯なまなざしや、命に対する敬意や喜び、あるいは悲しみを感じ取ることができます。
「岐阜県美術館」「熊谷守一つけち記念館」「熊谷守一美術館」などで作品を鑑賞することができますので、機会があればぜひ鑑賞してみてはいかがでしょうか。